『愛である』こと

自分の目指す行動指針は『愛である』ことと気がついた。『愛すること』ではなくて自分のすべてが『愛である』こと。スピの人の話を見聞きしていると、『すべてを愛すること』 という言葉に接することが多いのだけど、不快な思いをさせる人や、自己中心的な人の振る舞いも愛して大切にするってことなら、自分の感じている不快な気持ちにフタをしなくてはならないのかな・・・っていうのが疑問だった。でも度々内省していて気が付いたのだけど、『愛する』に軸を置くのではなくて『自分が愛であること』に軸を置くなら、その疑問に思っていたところがクリアになっている気がしてきた。

これは無意識にやっていていつの間にか『愛である』ことと表現する振る舞いになっているって気が付いた。

ベースになるのは相手がどう思おうと自分に対してどう振るまってこようと、私欲を基準とする判断ではなくて、フェアで最善な判断で行動すること。そこには報復とかやり返すという発想はない。

どんなに思いやりをもった接し方をしても、自分のことしか見えていない人たちはいる。そんな人たちもいろいろ経験するうちに周りに配慮することの大切さをそのうち学んでいく。今、自己中心的なその振る舞いは、未来にはきっと改善されているはずで、たまたま今はまだその学びを経験していないのだなと捉えてみる。まだ低いステージにいるだけで、成長を待ってあげる必要のあるところにいるんだなっていう感じ。

しかし、自分の人生は短いので、自分より周波数の低いステージにいる人たちに付き合っている余裕もないので、その人達と頑張って付き合うために成長を待ってあげる必要はない。そういう人たちとの関係を頑張って継続する努力をするよりは、遠くから見守ってるよーくらいの感じで受け止めて、必要最小限のかかわり合いだけで十分。そうすると争いも起こらず、自分も不快な想いをすることもなくなる。

気に入らない人のことを大嫌い!といってぶっち切るのとはちょっと違う。これやるとケンカだし。これは自分の感情をぶつけてるだけで、そもそも愛云々な反応の仕方ではない。 相手が不快な想いをしないようにしなやかに接点を減らしていって、かかわる機会を減らしてフェードアウトする。これならどちらも不快に思わない。お互いに嫌な想いをせずに、新たな次の人達との出会いへ向かう。そういう流れに導いてあげる。それって自分のことも相手のことも考えた愛の発想になってるのではないかなって。

諸々の事情でどうしても毎日かかわらなくてはいけない関係の相手の場合は、なかなか接点を削るのは難しい。そういう相手の場合は、そもそもなぜ自分が不快に思うことをしてくるようになったのか考えてみるのも大事と思う。各々価値観は違うので、もしかしたら他意はないのに自分が先に相手が不快に思うことをやっていたのかもしれなくて、そのやり返しをされているのかもしれない。 他人を変えることはできないので、他人を変えることを努力するくらいなら、他人を不快にさせた自分のその振る舞いに気がつく努力をして、以後それをしないように自分を変えることが一番状況を改善する近道なんだ。周波数の低い人はわかりやすい反応をする(露骨に態度に出したり、仕返しや報復をする)ので、自分にとって気づかさせてくれる人という見方もできる。

その場合も自分を責める必要はない。他人を不快にする自分で気が付かなかったことに気がつけたのだから、今後気をつければいい。過去の誤りは知らなかったのだから、責めることなく、自分が子供だった部分があったのだなと、温かくそんな自分を包んであげるのでいいと思う。

自分をどう変えても相手が変わらないのであれば、自分が改善しなくてはならない点がずれている可能性があるので、さらに内省して確認してみるのだけれど、どれだけやっても相手が変わらないのであれば、こちらがストレスが溜まりすぎてしまい病んでしまうので、ある程度内省して自分を変えても状況が変わらないのであれば、その相手と物理的に接触しなくてすむような環境を変えてしまうことが大事と思う。これはそもそも相手と自分が違う次元の人であることを受け入れるということと受け止めている。 社会人なら転職とか、引越しとか。学生ならその相手と接することになってしまう組織を外れるとか、先生に1on1で話して翌年のクラスが同じにならないようにとか。夫婦なら別居とか離婚とか。

愛でいるということは何かを行うことが必要なわけではなくて、なにもしないでいることもある。 苦しい状況にある中、忍耐を通して嵐が過ぎるのを待っている友人とか、持病の痛みにつきあって頑張っている知人や、心ない言葉をぶつけてくる親につらい想いをしている人、世の中にはたくさん困っていたり苦しんでいる人たちがいるけれど、そんな様子をみて、ただ黙って見守ってあげることも『愛である』ことだと思う。頼まれてもいないアドバイスをされ、わかったようなことを言われるのは、頑張っている人たちにとっては不快なことと思う。 ただ、相手の気持ちに共感して、応援しているよと伝えるのは元気と勇気を与えるかなって個人的には感じてる。

アドバイスは頼まれた時にするのは良いことだけど、実はそれを頼まれた時ってすでに本人のココロの中ではどうするか決まっていて、『どうしたいか聞いて欲しい、それを大丈夫だよ、それをやってみるといいと思うよ』という時がほとんどだと思う。

相手が求めてくるまで黙って見守っていることは、『愛である』ことなんじゃないかなと思うのね。 自分に攻撃的に接してくる人には、報復でなく、今の状況を許してしなやかに距離をおき見守ってあげること、自分に好意的に接してくる人には自分がやりたいだけ相手にも返してあげること。それが『愛である』ことなんじゃないかなって思うのね。

もちろん、遠回りすぎて時間がかかるから、受け入れられない人がいて当然なのだけどね。 なんか、僕はこんな感じのことを、あっているのか間違っているのかわからず、でもこれが僕らしいことと受け止めてやっているの。

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