非常識な人に不快な思いをさせられていたら

意見や価値観の食い違いで、相手の言動に対して感情的になって腹を立てている場合は、『自分の考え方が普通であり、相手が非常識である』という前提の元、思考しているんだなぁと思うことがよくある。

『普通』という名の幻想

『普通』の定義って主観的なもので客観的でないと思うんだ。『普通』とは、自分が認識していることが標準的だ、という錯覚だと思ってる。自分の認識が標準的であるという仮定の元、周りの人に確認してみると、大体その人達は同じ認識なので、自分の考え方は標準であり、『普通』だと認識するようになる。

しかし面白いもので、人というのは同じような価値観をもった人が集まってくるような世界に生きている。相手が同じ価値観を持っているかどうか確認し合った上で集まっているわけではないのに、自然と似たような人が集まる(*1)。 だから、周りの人にいくら確認しても、自分の考え方を承認してくれる確率の方が高いものなんだよね。

自分の価値観が『普通』であるという認識が固まると、他の価値観のセグメント(似通った層の集団)の人に接した時、自分の価値観では受け入れがたい言動を目の当たりにする。そして、相手に対して非常識な人だと腹を立ててストレスに感じる流れだと思うのね。

自分の価値観の方が正しく、相手は非常識なのだから、相手が言動や思考パターンを変えるべきだと思うようになり、相手に対してそのアプローチを始める。『あなたの考え方は間違っている。こう考えるのが普通でしょ?』という感じ。相手も同じように自分の価値観は正しいと思っているのだから、それに対して防衛反応で同じようなことを言い始め、どちらかがやめるまで個人レベルの戦争になるんだよね。

その状態になると、感情的になるし、自分が正しいと思い込んでいるし、自分の意見を曲げたくなくなるし、相手を論破してやっつけたいと思うようになる。

でも自分がこの状態になったら、自分の負けだと思うんだよね。相手に負けるんじゃなくて、自分が成長できる機会を得るためのゲームに負けたっていうこと。 そして、この状態になったら、その場を去っても、何時間もあんな事言われた、こんなこと言われた、次こういうことがあったらこういってやる!とか、まるで生産的でない連想ゲームをやって、勝手にストレスを増幅させることになるんだよね。 このような当事者二人の意見は正反対だったりしてこういう顛末になるのだけど、そんな正反対の価値観をもつ二人が全く同じものを課題としてもっていると思う。

僕が思う、その同じものとは・・・

  • 『自分が正しい』という強過ぎる思い込み
  • 相手が気がつくまで待ってあげることができないココロの余裕のなさ

『自分が正しい』という強過ぎる思い込み

自分と価値観が違う人はたくさんいて、実のところ、人の数だけ価値観の種類は存在すると思う。

人は生まれてきて、それぞれ学んできたプロセスが違うのだから、違う経験から構築された価値観がある。そのため、価値観は様々であって当たり前だと思うんだ。価値観とか意見は、『普通』という特定の基準があるのではなくて、様々であるということを認識して、自分の中にそれを前提として刻んでおくことが大切って思うんだよ。自分だけが正しいのではなくて、立場が変わったら意見も価値観も振る舞いも変わってくるものだと。

 

相手が気付くまで待ってあげられないココロの余裕のなさ

自分の方が正しいと思うと、論破して相手を打ち負かしたいとなることもあるかもしれない。時には正論で考えたら自分の方が確実に正しいと思うこともあるかもしれない。 でも、論破して討論で勝っても、後味は良くなかったりするんだよね。勝ったのに負けたような気持ちになるの。

そして、正論をかざす時は、相手を思いやって言葉を選んで伝えることが大人の対応だと思うのね。怒涛のごとく正論をかざしてこてんぱんにやられた側は、とても傷つくものなんだ。正論で自分があっているなら、穏やかに余裕をもって話しても、その場は自分の意見が通るでしょう? だから正論をかざすなら、勝った後の相手の気持ちも考慮して、相手に気が付かせてあげられる話し方ができると素晴らしいと思うんだよ。『勝つ』のではなくて『気づくきっかけをあげる』とか『気づくまで待ってあげる』とか、そういう感じ。

相手は間違っているかもしれないし、未経験で知らないだけかもしれない。そうだとすれば、相手が自ら気がつくようなコミュニケーションをとればいいだけ。相手の成長を待ってあげたり、コミュニケーションで自発的に気づくように引き出してあげるような作法が、討論よりずっと素晴らしいと思うんだよね。

自分の作法を変えても相手が討論をしかけてくるなら

自分が戦闘モードにならない振る舞いを身につけることができたら、自分のステージはひとつ上にあがっていると思うよ。でも相手がまだ戦闘モードでしかけてきたら、神様に試されてるとでも受け止めたらいいと思うんだ。相手の低い周波数にあわせて自分も低周波になって戦闘開始になるか、しなやかにかわして相手をなだめて同じ土俵に乗らないようにするか、それを試されてるということ。

何をしても相手が戦闘モードなら、物理的に接点を減らしてしまうのでいいと思う。それができない関係ならば、事務的な話だけにして、相手が反応してこないような言葉を注意深く選んで話すとかして、接する時間を減らす感じ。

低い周波数の人は、周波数があがった自分には仕掛けてこなくなって、他の同じような低周波数の人に引き寄せられていくから。

 

長くなったけど、非常識な特定の人に長く苦しめられていたら、価値観が『普通』だと思い込んでいる自分に原因があると気が付くと、その状況を抜け出せるとかもしれない。自分が苦しまないようにするのに大切なことは、この認識を持って、相手を変えようとしていたのをやめて、自分が変わることが一番の近道だと思うよ。

 

*1: ちょっとファンタジーな言い方をすれば、波長が同じ人たちは引き寄せあうから集まる。低い周波数の価値観を持っている人は低周波数を出しているので、その人に集まるのは同じような低周波数を出している人たち。愛があふれる思いやりの塊のような人は高周波数を出しているので、集まってくるのはやはりそのような人達になる。これについては論理的なエビデンスを提示できないけど、自分で試してみると腑に落ちると思う。類は友を呼ぶの通り。